平成17年最高裁判例と退去時の修繕費負担特約
<質問>
私は、大家さんから家を賃借し、敷金として35万円を交付していましたが、賃貸借契約の終了により、借りていた家を出て、大家さんに対して敷金の返還を求めました。
しかし、大家さんは、退去時の原状回復義務に関して、賃貸借契約書では「生活することによる変色・汚損・破損」に対する修繕・補修費が賃借人の負担する旨の条項があるとして、敷金から家の補修費用として30万円を差し引いた5万円しか返還してくれませんでした。
大家さんは、通常の使用に伴う損耗についての補修費用まで敷金から差し引いているようですが、そこまで賃借人である私が負担しなければならないなんて納得できません。残りの30万円も返還してもらうことはできないでしょうか。
<回答>
1 敷金
不動産賃貸借成立の際には、通常、敷金と呼ばれる金銭の授受が行われます。
その目的は、借家契約の期間が満了して賃貸借契約が終了する時に、支払の滞っている賃料債務や建物に関する損害賠償債務を担保することにあり、延滞賃料や損害賠償額を控除して、残額は借家人に返還されます。
2 原状回復
賃貸借契約が終了し、借りた家を貸主に返す場合、借主は、借りた家を原状回復して返す必要があります(民法616条、598条)。
もっとも、ここでいう「原状回復」とは、借りた時の状態と同じに戻さなければならないという意味ではありません。借りた借家が、通常の用法で使用していればそうなるであろう状態であれば、「原状」にあたります。借家契約は、その借家を利用することが契約の本質的な内容ですから、通常の使用に伴う消耗は当然に予定されていることであり、損耗以前の状態にまで回復させることは民法は予定していないのです。
借りた家が通常の用法で使用していればそうなるであろう状態以上に痛んでいた場合には、借主は、借りた家を通常の用法で使用していればそうなるであろう状態に原状回復しなければなりませんが、その場合、通常は、補修費用を敷金から差し引くという形で清算されます。
本件では、通常の使用に伴う消耗についての補修費用まで敷金から差し引かれているということですが、上述したように、そのような補修費用は、本来、借主が負担すべき費用ではありません。そこで、原則として、借主は残りの30万円も返還してもらうことができます。
3 通常の使用に伴う消耗についての補修費用を賃借人に負担させる旨の特約の効力
もっとも、賃貸借契約の際に、賃貸人と賃借人の間で、通常の使用に伴う消耗についての補修費用を賃借人に負担させる旨の特約がなされることがあります。
このような特約の効力については、有効であるか無効であるかという議論がなされてきましたが、最高裁は、平成17年の判決(平17.12.16第二小法廷判決・判例タイムズ1200号)において、一般的に特約を結ぶこと自体は民法90条の公序良俗違反に該当ぜず必ずしも無効とはならないとしつつ、特約に関する合意の成立要件を極めて厳格に解する立場をとることを明らかにし、結論としては、特約の成立を認めませんでした。
すなわち、最高裁は、このような特約は、賃借人に予期しない特別の負担を課すものであるから、賃借人がそのような特約の具体的な内容を明確に認識できるようなかたちで合意された場合のみ特約が成立するとしたのです。
そこで、本件でも、上記のような特約がなされており、しかも、賃借人が補修費用を負担することになる通常消耗の範囲が、賃貸借契約書の条項自体に具体的に明記されているか、賃借人が口頭により説明し、賃借人がその旨を明確に認識し、それを合意の内容としたものと認められるなどのような場合には、右特約は有効と解されます。そして、その場合には、賃借人は特約に従って、通常の使用に伴う消耗についての補修費用も負担することになりますので、残りの30万円の返還を請求することはできないということになります。
4 もっとも、前記判例の事案は本件と同様の事案ですが、賃借人の負担とされている修繕・補修の範囲・場所について、賃貸借契約書の別表である修繕費負担表で、襖紙、障子紙について「汚損(手垢の汚れタバコの煤けなど生活することによる変色を含む)・汚れ」、各種床仕上材・各種壁・天井等仕上材については「生活することによる変色・汚損・破損」に対する修繕・補修費が賃借人の負担とする旨が定められておりました。
しかし、最高裁は、上記のような条項では「賃借人が補修費用を負担することになる通常消耗の範囲が、賃貸借契約書の条項自体に具体的に明記されているとはいえない」として、特約による賃借人の修繕費負担を認めませんでした。
上記の定めでは、「生活することによる変色・汚損」も賃借人負担とすることが書かれており、通常損耗についても賃借人が負担することが契約書でも書かれているように思われますが、最高裁は、上記のような書き方でも特約の成立を認めませんでした。
したがって、上記の最高裁の判断を踏まえると、修繕費負担の特約の成立が認められるためには、賃借人が退去するときに負担すべき修繕の範囲及び負担の程度が具体的に認識・予測できるほど一義的に明確にかつ具体的に契約書に明記されている必要があるということになります。すなわち、少なくても、契約書において、賃借人が負担することとなる通常損耗(通常の日常生活を送っていても生じる建物の傷み・汚損)の程度、通常損耗により補修すべき範囲、そして、賃借人が負担すべき修繕費の額若しくは計算方法などを明記した上、口頭でも十分説明をしておく必要があると思われます。
4 消費者契約法10条
消費者契約法には、民法の規定の適用による場合に比べて消費者に不利な条項で、消費者の利益を一方的に害する契約は無効とする旨の規定があります(消費者契約法10条)。上記3で述べた特約は、民法の適用による場合よりも賃借人(消費者)に不利であるといえ、この規定によって無効になるのではないかという見解もあります。この点についての裁判所の判断はまだ明らかになっておらず、今後の動向が注目されています。